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続き3・・・

 このようなパラドキシカルな現象をイギリスの児童精神科医D・W・ウィニコットは、子どもはだれかといっしょにいるときにしか、一人になれないという見事な命題で表した。誰かとは、子どもの受けとめ手、イノセンスの表出の受けとめ手のことであることはいうまでもあるまい。
 このような受けとめられ体験の積み重なりが、受けとめ手への信頼を作るのであり、受けとめ手への信頼がそのまま子どもの自己受けとめ能力の核となっていくのである。添い寝の話にもどれば、〈充分な〉添い寝の体験が、子どもが一人で寝ることができるようになるための近道なのである。(***)

 〈充分な〉と書いた。D・W・ウィニコットならここは、ほどほどに十分good enough
であればいいというだろう。そのとおりだと思う。ただし間違ってならないのは、このほどほどに足りているというのは、親が決めるのではないこと、これだけかまってあげた(相手になってあげた)のだから十分でしょうというのは親の視点にすぎないということである。子どもの視点に立てば、何をもって、あるいはどんな状態が、ほどほどに足りているということなのか明瞭ではない。時間としては十分な量であってもさきに添い寝に関して述べたように、心ここにあらずという状態であれば、いくら時間をかけても子どもに安心感、安定感は訪れない。それゆえ子どもにとってという意味で、〈充分な〉といったほうがいいのではないかと考え、そのように記した。

 知り合いのベテラン教諭から、こんな話を聞いた。先日(4月)の入学式の後、母親と子どもの部屋をわけて、保護者との懇談の場を設けたのだが、そのとき78人の新一年生のうち6人が泣き叫んで母親を探し求め、廊下に飛び出した。数人もの子どもがこんなふうになったのははじめてだという。迷子状況に置かれたと感じたのか、それとも置き去りにされたとでも思ったのだろうか。受けとめ手と引き離されたことによって生じたこのような子どものパニック(パニックの感染)は、幼少時における受けとめられ体験の欠如、不足を想像させるエピソードである。

 もう一つメモを加えておこう。自分の人生なのに、どうしても他人事のようにしか感じることができない。自分の人生にお客さんのようにしかかかわれない、主体的になれないと訴える人に出会う。またそのようにしか生きていないのではないかと思えるような振る舞いに出る子どもたちに出会うことがある。無鉄砲であったり、投げやりであったり、かと思うとひどく身勝手であったり――。とても不安定で見ていられない。そのことを指摘されたりすると、「どうせ自分なんか」とその子たちは応える。彼らは自分を受けとめられないのだなと思う。イノセンスという状態のままにあるのだ。

 だからこう考える、彼らは自己のイノセンスの表出を受けとめられたという、受けとめられ体験が欠如ないし不足しているのだ、と。(次ページへ

 
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