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続き4・・・

 このような自己流の考えにもとづいてAさんは子どもに条件を設けたのです。
 「そのぎりぎりのところで私達なりに受けとめ頑張ってきたのです」。「ぎりぎり」とはAさんが引いた境界線いっぱいという意味です。それはあくまでもAさんにとっての「ぎりぎり」すなわち許容の限界線であって、子どもがそれにどう反応するかという視点は皆無です。
 
 これでわかるように、Aさんはまるごと(無条件で)子どもを受け入れなかった。子どもを受けとめるより先に、子どもに要求してしまったのです。Aさんは、子どもを受けとめるより先に、自分の要求を優先したことを、「子どもを導こうとした」というように認識しています。だがまったく効果はなかったとも述べています。
 当然だろうなあ、と思うのです。実子であっても、このような教育的な典型的な〈させる〉タイプの親を持った子は、たいへんだろうなあ、と思います。経験上、どこかの時点で反乱を起こすか、反抗できずに生き難さを抱え込むか、どちらかだろうなあ、と思ってしまいます。
 
 Aさんの手紙で明らかになったことは、B子は十四歳になろうとしているのにまだ「試し行動」をやっている、試しの時期の段階を越えることができないでいるようだ、というものです。精神的に幼児段階にとどめられてしまっている。
 精神的に幼児期を越えられない理由は、一つです。必要なその時期に「試し行動」を無条件で受けとめられていないことです。B子の「試し行動」を受けとめる、受けとめ手が欠けていたということです。
 
 「試し行動」は、したいようにしたい時期に、したいようにさせてもらえなかった子どもが、その時期をもう一度、充足感とともに体験したいという欲求がもとになっています。したいようにすることがそのまままるごと肯定される体験を求めての欲求表出です。
「試し行動」が受けとめられる過程で子どもは、その受けとめ手を親として受け入れる用意ができるのです。

 B子の行動が訴えているのは、はやくこの段階を越えたいということ。それには受けとめられ体験が不可欠。受けとめられ体験を経験するためには「試し行動」を受けとめてくれる受けとめ手が必要であり、養親にその受けとめ手になってほしいという要求なのです。
 「性格的傾向」の問題ではなく、受けとめ手がいないということが問題なのです。子どもは受けとめられたと感じたとき、その受けとめられ体験を核に成長します。受けとめられ欲求を受けとめてくれた受けとめ手に対する感謝や信頼は、受けとめられ体験があって生まれてくるものです。
 
 筆者にはB子の哀しいかぼそい声が聞こえてくる気がします、「おかあさん、どうして私を受けとめてくれないの!」
 養親にこの声を聞く耳が具わったとき、〈親子になる〉道が目の前に大きく開けてくるのではないでしょうか。(第6回目 了)


 
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