私はデラシネの民?
群馬ケアステーション代表 
村山 水穂子 

  
 子ども時代のエピソードというタイトルで書こうとすればパンドラの箱をあけたように様々な思い出が噴出してどれを主にしようかと戸惑い、この数日は家事をしながら、畑仕事をしながら、散歩をしながらと体を動かしてはいても頭の中は過去を振り返り続けていた。その訳は、生後1歳のときから転居を繰り返した年月にあり、その場所ごとに変転する周囲の環境やめぐり合う人たちとの関わりなど数えだせばエピソードは山のようにあるからだ。締め切りの期限が迫り、転居を繰り返してきた人生を思って、ではその変転ぶりを書こうかと何回転居したかと数えだしているうちにデラシネという言葉が浮かんできた。

 昭和18年の春に石川県金沢市で生まれた私だが、両親の都合で1歳のときに東京に引越した。裕福な商家の長男として生まれた父なのに何故この時期に転居したのか、両親亡きいまは聞きようがないが、戦争中で、日本の首都である東京はたびたび空襲に襲われ、焼夷弾などによる火災で何回も家を焼失し、そのたびごとに転々と住まいを変えたと母は話した。戦争末期に金沢の叔母宅に預けられた私は空襲警報の鳴る音や焼夷弾の落ちるさまを叫んで「怖い、怖い」と耳をふさいでうずくまっていたというが、幼児だった私の記憶には残っていない。 
 また、この時期に少なくても4,5回は転居しているだろうがこれも記憶にはない。そして、3歳下の妹が生まれた2年後に両親の離婚と、6年後に3人の子連れで母が再婚という年月にも5,6回の転居をしている。それをもっと詳しく言えば離婚後に母が経済的に自立するまでは3人兄妹はばらばらに離されて他家に預けられ、その間私は2回知り合いなどの他家に移されたという。
 
 幼少期にこのような生い立ちをもつ人間には記憶の断裂という症状がある。普通の人は、思い出といえば走馬灯のように記憶がつながっていくのだろう。しかし、私の記憶にはモザイクがかかり、頭から血を流していたおじさんが荷車に乗せられて運ばれて言った様子とか、家の隣が火事になって火炎が高く噴出していた様子とか、雷鳴が響き渡っていた夜に一人留守番をしていた時の怖かった様子とか、結核で入院していた母を見舞うために女中さんに連れられて下りた駅のそばに大きな変電所があった様子などが一瞬のように浮かび上がるといった感じで、それが何歳のときか、場所がどこだったのかという全て判然としないフラッシュのような画面ばかりだった。

 しかし、自分の生い立ちや記憶の断裂を悲しいという思いは私には無い。63歳となった今ではそれを面白がっているし、むしろそうであって良かったと思っている。娘時代に心理学に興味を持って調べたり、カウンセリングの技術を学んだりした経験からも確信できる。15、6歳まで何か恐ろしいものに追われて逃げ隠れしている私とか、通り抜けられないような狭い洞窟の深部でもがいているところとか、静かな海浜にいたのに突然つなみが押し寄せてきて飲み込まれるなどという夢をみていたから、深層に埋めた嫌な記憶がよみがえっていたのだと思う。そう考えれば、おそらく、たぶん、きっとという前置詞がつくような思い出があって、私の幼少期には慣れ親しんだ家族や地域から離された幾多の場面では深い悲しみや傷ついたことが数多くあったのだろう。いじめもあったことだろうし、世間の偏見の目にさらされたこともあったはずだ。
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