気づきがあれば回復できる (1)
リカバリング・ソーシャルワーカー 
吉岡 隆 
 ぼくは今、60才。もうすぐ次の誕生日を迎えようとしている。
ぼくが母親のお腹にいた頃、母親はひどいつわり悪阻で苦しんだと言う。生まれたときは仮死で、しばらくしてから小さな産声をあげたらしい。戦争が終わった翌年のことだった。小学校にあがるまでに、疫痢にもかかったし、遊動円木から落ちて、頭を何針も縫う怪我をしたこともある。
 ぼくは第一子だったので、ぼくの年齢が両親の親年齢となった。ぼくが初めて経験することは、親も初めて経験することになるからだ。ここに赤茶けた子ども時代の写真がある。むろんカラーなんてない時代のものだ。眉間に皺を寄せた神経質そうな男の子が写っている。それがぼくだ。
 
 早生まれのぼくは、4月生まれの子とは1年近く年が離れていたが、同じ学年だった。体力はないし、運動能力は低いし、手先は器用ではないし、ものを覚えるのに時間がかかった。これだけ条件がそろえば、いじめの対象になるのは当然だった。今でこそ、そうしたものをクリアーしてきているが、当時は自信を持とうとしても、とても持てなかった。社会体験の不足が大きな原因だったのだと思う。
 ぼくは父親にも、母親にも「ぼくを受け入れて! ぼくを認めて! ぼくを褒めて!」と訴えていたが、なぜかそれはかなえられなかった。 ぼくの父親はいつも怒りを抱えていたし、ぼくの母親はいつも不安を抱えていた。 ぼくを認められないことと、怒りや不安がどう繋がっていたのかが、だんだん分かってきた。
 
 父方祖父にはアルコール問題があったし、母方祖父には、アルコールと暴力の問題があったのだ。依存症の分野では、機能不全家庭で子ども時代を過ごした人をAC=アダルト・チャイルドと呼ぶが、まさしくぼくの両親はACだったのだ。
 父親にしても、母親にしても、自分が受け入れてもらえず、認めてもらえず、ほめてもらえなかったから、自分が生き延びるために、ぼくに同じことを繰り返さざるをえなかったのだろう。
 振り返ってみると、ぼくは、小学校にあがる前は身体痛で、小学校時代は貧血で、中学・高校時代は悪夢やひどい歯ぎしりで、大学に入ってからはうつや頭痛や肩凝りで、SOSを発信していた。

 大学時代のある日、ぼくの先輩が遊びに来ていた時だった。父親のどんな言葉に反応したのかは覚えていないのだが、ぼくは父親に向かって大声をあげた。「そういうお父さんは、今までぼくのことを一度も認めてくれたことはなかったじゃないか!」
 さすがの父親もぼくの語勢に押されてか、一言も返さなかった。そして、その日から妙にぼくに気を使っているように見えた。ぼくは父親の仕事を継がず、対人援助職を選んだ。結婚したが、やがて仕事中毒になり、女性問題も起こすようになった。これも神様の計らいだったのだと思うが、仕事の関係で、アルコール依存症や薬物依存症の施設職員やAAやNAといったセルフヘルプ・グループのメンバーとも知り合いになった。そしてぼくも、彼らの回復プログラムを踏み始めたのである。いくつかの点は線となり、線は面に、面は立体になって、自分が何者であるかが見えてきた。ぼく自身もACだったのだ。

 そして、職業選択も、配偶者選択も、女性問題も、仕事中毒も、初恋の人の夢を半世紀も見てきたことも、ぼくの承認欲求から出ていたものであることが分かった。クライエントに求めても、配偶者に求めても、それが駄目なら他の女性に求めても、上司に求めても、ぼくの承認欲求が満たされることはなかった。なぜ? ぼく自身しか、それは満たせないことに気づいていなかったからだ。
 他人の評価に一喜一憂するというのは、他人の評価に依存しているからだが、自己評価が確立できれば、そのブレは小さくなる筈だ。ぼくが気づくべきことは、それだったのだ。気づきがなかったから、ぼくは過ちを繰り返してきた。気づきがあれば回復できる。

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